C地区のレオ19名とともに、カンボジアのプノンペンとシェムレアップを訪ねカンボジアの繁栄と衰退の歴史を学ぶ機会を得た事は私にとっても又、レオにとっても大変に勉強になりました。特にレオ達には『平和の尊さ』『国家とは何か』を学び良い経験になったと思います。
カンボジアは今でこそ東南アジアの小国で世界でも最貧国(公務員の月給は約2000円)の一つですが、12世紀から13世紀にかけては東南アジア最大の経済発展国で、タイやビルマの一部・ラオス・ベトナムに至るまでの広大な地域をその支配下に置いていました。
当時の国家繁栄の鍵は、雨期(9〜10月)に降る大量の雨水を人造湖に貯めたり灌漑設備を充実させ、三毛作や四毛作を可能にしたことによります。 ところが私達が訪ねた時、田畑は真っ茶色で干からびていました。なんと今では年に1回しか米が作れないのです。灌漑設備や用水路がほとんど無いのです。三毛作が可能な気候風土なのに1毛作しかしていないのです。
その理由は、15世紀の首都アンコール陥落によります。占領したシャム(タイ)軍は、灌漑技術者や高度な知識を持ったカンボジアの民を3万人もシャムへ虜囚として連れ去ってしまったのです。さらにシャムは18世紀にバンコクの運河建設の為にカンボジアの優秀な技術者を1万人ほど連行してしまいました。カンボジア側の歴史書によれば「連れ去られた」となっていますが、タイ側の歴史書によれば困窮したカンボジアの民を慈悲深いシャム王は3万人も受け入れたとなっています。
「日本の国でも、こうならないという保証はありませんよ。いつかある国が攻めて来て、優秀な科学者や技術者を何万人も連行して行って、『我々は困っている日本人を数万人も受け入れてあげた』ってことになるかも知れない」とガバナーがバスの中で言った時、レオ達はシーンとしてしまいました。
では、何故に栄えに栄えたカンボジアが外国の軍隊の侵入を許してしまったか、岡野ガバナーは興味深い2つの理由をレオ達に示してくださいました。その一つは、当時、公共事業のやり過ぎ(特に大建築)で、国庫は窮乏し、国民が重税や徴用により疲弊して行った事。 もう一つは、リーダーである国王が日本のように万世一系ではなく、ある時は実力のある将軍が、ある時は王族や貴族がというように、王位継承を巡って争いが絶えず、暗殺や虐殺が日常茶飯事的に行なわれ、王位を狙う人間は自分の地位を有利にする為に進んでシャムまたはベトナムに支援を求め、両隣国はこれに乗じて侵略と干渉を行なったからでした。
特に近世から現代にかけては、他国に支配され続けて、タイ→ベトナム→フランス→日本軍→フランス→アメリカ(ロン・ノル派)→中国(ポル・ポト派)→ベトナム(ヘンサムリン派)と、大国の利害得失と思惑のなかで翻弄されてきました。この中で、地元の古老の方が言うのには、大戦中の日本軍による統治時代が一番まともな時期であったと言うことです。現在カンボジアの人々が親日的なのは、この時の記憶が言い伝えられているからだそうです。第2次大戦後、戦時中の賠償請求を日本に対して世界で最初に放棄を宣言したのはカンボジアであったことも頷けます。
今回の旅でレオ達に一番印象に残ったのは何処かと聞くと、植樹や例会訪問よりも、ポルポト時代の刑務所の跡地にある虐殺資料館であったと皆一様に言います。 農民主導型の共産主義を唱えたポルポト派が、アメリカの傀儡であったロン・ノル派の人々やその家族、また高校卒以上の知識人を無差別に殺戮し少なく見ても150万人、餓死者や獄中病死者を含むと300万人もの人間を虐殺した証拠の写真や資料を見た時、私は開いた口がふさがらず、唖然茫然と見ているだけでした。並べられている多くの頭蓋骨を見ると「生存中に歯を打ち砕かれたものばかりだ」と、拷問の凄まじさについて、同行した歯医者の先生が、信じられないといった様子で語っていました。
これらポル・ポトを背後で操つり、多くの支援をしていたのは、中華人民共和国で、特に紅衛兵の思想を受け継いだ誤った共産主義者の爪痕が、そしておろかさが、資料館の資料一つ一つに残っていました。『変な思想がはびこった時』それは国の滅亡への第一歩であると、今回の旅で確信しました。
この日本だって、数百年後にはどうなっていることだろうか? 国が滅んだ事の無い国民には理解できないだろうか? 国を守るとは? 国家とは何か?
レオ達にとっても、私にとっても、多くのことを考えさせる機会を与えたカンボジアの旅でした。
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