山口製菓舗のあゆみ
◆銚子に生まれて100年!
  大正三年に駄菓子屋を始めたのを起源とし、山口製菓舗は創業100年を過ぎました。地元のお客様、遠方から足を運んで下さるお客様、社員の方々、材料問屋の方々、すべての支えて下さった皆様へ感謝の気持でいっぱいです。これからも老舗の名に恥じぬよう地道な努力を重ねて参りますので何卒ご愛顧の程を宜しくお願い申し上げます。  


◆醤油と魚の町 銚子
 
 関東平野のいちばん東に位置し、北は利根川、東と南は太平洋と三方を海に囲まれた銚子。夏すずしく、冬あたたか。
海に囲まれた典型的な海洋性気候がもたらす温暖で高湿な環境は銚子に醤油醸造を根付かせ、江戸時代には利根川水運が開発され醤油醸造業は大きく発展しました。
(ヤマサ醤油ヒゲタ醤油宝醤油)
 古くから醸造の町、観光の町として栄えた銚子 
資料:銚子カメラ博物館所蔵
 
ヒゲタ醬油(銚子名所絵葉書より)
中央の男性は背中のヒゲタ印を見せるため後ろ向きに。
 
銚子醬油株式会社(現在のヒゲタ)
国際写真新聞広告より(昭和8年)
 
ヒゲタ醬油の古いラベル
 
古い観光パンフレット「銚子半島ハイキングコース」
(銚子市観光課、銚子観光協会)
 
古い観光パンフレット
中は銚子の見事な地図絵
(銚子商工会議所)
 
美しい色彩のパンフレット「銚子磯めぐり」(曉鶏館)


見ていて楽しいマップ「釣の銚子」
裏には「海之部、河之部」と魚ごとに詳細案内が。
(銚子市観光課、銚子観光協会)
 
◆駄菓子屋から誕生した山口製菓舗
 銚子漁港は日本随一の漁獲高を誇ります。潮の香り、波の音、カモメの声、船のエンジンの音、魚や塩水や氷を運ぶダンプ、湿った道路、道に落ちた新鮮な魚、威勢のいい声。漁港は活気に満ちています。そんな港町に山口製菓舗は生まれました。
 もともと武士だった先祖が脱藩し摂津の国西宮から銚子に移住、江戸時代から廻船問屋を営んでいた山口家でしたが山口金蔵の代には船の遭難で廃業を余儀なくされます。
その後、金蔵の妻、阿起(あき)は女手ひとつで駄菓子屋を始めます。これが山口製菓舗の原点です。(大正3年)
◆菓子職人 四郎の婿入りで大繁盛
 やがて、あきの次女はなが後を取り菓子職人の修業を終えた四郎が婿に入ります。厳しい奉公先で菓子職人の修業を積んだ四郎は職人気質で仕事に厳しい人でした。ちなみに厳しい修業先とは高須賀製菓という今も現存する菓子屋で「死んでしまおか、高須賀いこか」と歌われたぐらい厳しかったそうです。四郎は修業で培った経験を生かし美味しい菓子を次から次へと作り大繁盛しました。
◆あんこ玉がよく売れた
 当時作っていた菓子は、あんこ玉、大福、草もちなどの業界用語でいう駄生(だなま)菓子。
もっとも当時はオーブンなど存在せず、火を入れるにしても大鍋、鉄板(通称一文字や平鍋)等の器具しかなく焼菓子というよりは、あんこを炊く、餅米を蒸らして杵でついた餅菓子等の生菓子が菓子製造の主流だったと想像します。
店を構える前は、作った菓子はリヤカーで売り歩きました。特にあんこ玉が良く売れたそうです。お菓子の種類が少ない時代、炊き立てのあんこを丸めた甘くて口どけの良い菓子は、その時代の人にとってさぞかし美味しく感じ人気があった事と思います。
◆四郎は飴を作るのも上手だった
 厳しい修行を積んだおかげで、四郎はどんな菓子でも器用に作りました。修行先で習った菓子を作る以外にも、東京で流行っている菓子を知るために汽車に乗り出かけていき、銚子に着いてからその菓子を研究し、すぐに同じ菓子を作ることができました。新しい菓子を売り始めると、町ではすぐに有名になり、売り先売り先でお客様が買いにごったがえしたと言います。
そんな四郎は、飴玉も作っていました。伸ばした飴をリズミカルに切る音が聞いていて気持ち良かったと今でも語り継がれています。
◆初めての店舗を構える
 四郎は、菓子業を軌道にのせると、作りたてをその場で売る店を構えます。
また、つけで材料を買うと割高になるので現金で材料を買い、得をした分だけ菓子を大きくするなどお客様の事を一番に考える工夫を惜しみませんでした。菓子作りに妥協を許さない職人気質の四郎が作る菓子の評判はますます広がり、飴が伸びるように商売も伸びて行きました。
◆菓子作り厳しかった
 菓子業が繁盛するにつれ山口製菓舗では大勢の職人見習いを雇うようになりました。何十人もの若者が住み込みで働いていました。四郎は、職人や見習いにはとても厳しく指導しました。道具の置く場所や準備が不十分であると、その場でその日の菓子製造を打ち切りにしました。こうして四郎に厳しく指導を受けて育ち、立派な菓子職人として家業に戻った人や独立開店した人達からとても感謝されていました。
◆工場の拡大へ
 四郎は、東京の問屋が持ち込む情報には素早く反応し、東京で流行の菓子、道具、機械などを導入するなどして良い菓子を作るための製造システムを整えていきました。後に、当時画期的だったベルトコンベアなどのパン工場ラインは、工場見学の名所として近隣から多くの小学生が訪れました。
◆山口製菓舗の歴史 
※マスメディアで紹介された記録はこちらをご覧下さい。
和暦 西暦 先 祖 商売のこと
脱藩し摂津国西宮網谷町の住人にして当銚子に移住
網谷治郎兵衛と号す

先祖 網谷平助は代々の商業用の屋号。
廻船問屋を営む。
文政5年11/20 網谷治郎兵衛 死去(?)
弘化4年8/21 平吉の父
網谷平五郎 死去(81)
嘉永3年3/29 治三郎の父
網谷平吉 死去(40)
明治17年1/9 藤松の父
山口治三郎 (56)

正式姓を脱藩前の山口に戻す
大正3年2/4 藤松の長男
山口金蔵 死去(36才)
金蔵の妻 阿起(あき)が駄菓子屋を始める。山口製菓舗の原点となる。
極めて零細な為、一文商(いちもんあきない)と言った。
大正12年8/12 山口藤松 死去(68)
昭和初期 山口四郎 婿入り(金蔵次女はなと婚姻)
下駄エピソード
菓子職人の修業を積んだ四郎が婿入りし繁盛する。
昭和7年3/3 四郎の長男
山口卓郎 誕生
昭和11年5/14 アイスケーキの販売を開始、菓子店に増築する。
※アイスケーキとはアイスキャンディのこと。
昭和20年 終戦。
戦後の物資不足。特に砂糖が貴重であった。
昭和20年代後半 卓郎 厳格な父四郎に反発し東京鳥越へ家出。
その間東京でパン製造を学ぶ。
卓郎帰郷後、菓子業に加えパン製造を開始。
■山口製菓が作ったパンを銚子市立明神小学校に納め、学校給食パンがスタート。
  近隣初の学校給食システムの開始となる。
昭和27年10/11 山口製菓舗 法人登記
山口四郎 社長
昭和29年1/4 金蔵の妻
山口阿起(あき) 死去(70)
昭和30年代 東京で修業を積んだケーキ職人を雇い洋菓子部門を始める。
近隣の小学校からパン工場の見学に訪れる。
昭和39年 西芝店オープン。
昭和40年代 『フランセ』(現在のハーフトーン)、『シップ』が大ヒット。

東京からパン講師を招き菓子パンの指導を受ける。
『バタヤキ』、『サンオレ』が誕生する。
昭和44年12/20 山口四郎 死去(62) 四郎の残した言葉
山口卓郎(四郎の長男) 社長就任
 1973年頃      歌手山口百恵が銚子に来た際『百恵ちゃんまんじゅう』を発売。オリジナル焼印作成。
昭和62年~平成9年   山口武彦(卓郎の弟)が社長を務める  
平成9年9/6 山口佳郎(卓郎の長男) 社長就任
平成9年月    元祖サバカレーパン  信田缶詰(株)とコラボし元祖『サバカレーパン』を発売。その後、第一パンにレシピを提供。
平成9年11/22 四郎の妻
山口はな 死去(90)
平成17年2/16 山口卓郎 死去(74)  
卓郎の残した言葉
卓郎が嫁(由美子)に残した言葉
平成17年9月     『銚子漁港 いわしサブレ』を新発売。
平成21年9/11 2010 本店を清川町に移転。店舗屋号を「山口製菓舗本店」から「ベーカリー赤毛のアン」へ変更届出し、物語「赤毛のアン」に登場するグリーンゲーブルズを再現した店構えにした。
平成22年3月27日 2011 工場2階に【銚子カメラ博物館】を開館。
平成23年9月 初のパン酵母による銚子銘菓 木の葉パンの製品化に成功。
 『 銚子銘菓 木の葉パン 』 を新発売。
平成23年10月 銚子の特産品醤油を使った菓子 『 食べるしょう油ラスク 』 を新発売。
平成24年2月  『 蜂蜜 木の葉パン 』 を新発売。
 『 銚子外川漁港 金目鯛のきんめちゃんサブレ 』 を新発売。
平成24年6/13(水) 「銚子入梅いわしまつり」参加飲食店向けに『限定土産いわしくんセット』を企画、販売。
魚めん、いわし煎餅と一緒に『いわしサブレ』をセットにした物。大衆日報にも大きく紹介され話題になった。祭りというからには、にぎやかな方がいいと思ったのがきっかけ。
平成24年9月1日(土) 『銚子醤油サブレ』を新発売。
平成24年9月25日(火) 『銚子漁港いわしサブレ』が銚子推奨品に認定される。
平成24年10月1日(月) 赤毛のアンのマドレーヌ(メープル、蜂蜜レモン、アーモンド)を新発売。
平成24年10月5日(金) 『しょう油ラスク』が、【千葉の酒フェスタ2012】でおつまみとして参加。
平成24年10月8日(月) 『フルーツ甘食』を新発売。
平成24年10月14日(日) 『琥珀あめ、醤油サブレ、しょう油ラスク』が、全国醤油サミットの関連イベント【しょうゆパワーフェスティバル】に参加。
平成24年10月14日(日) 旭市の大音楽祭【Nature Lovers2012】に、出演者用のランチとして『ネーチャーバーガー』、『ラバーズあんぱん』を提供。
平成24年10月16日(火)      『しょう油ラスク』が大学生さんによって、新宿で販売された。
★大学生が選ぶ人気ランキングで第一位に輝く。
平成24年12月2日(日) TBSがっちりマンデーで『しょう油ラスク』が紹介され一躍大ブレイク。放送当日全国から300人が本店に殺到し、しょう油ラスクの予約待ちが1ヶ月以上続いた。これを機に通販システムを導入。銚子の新名物として、『いわしサブレ』と並ぶ主力商品に成長。
平成25年2月1日(金) 2013 脇役ながら根強い人気の「銚子ボートマドレーヌ」のパッケージを新調。
平成25年2月8日(金)       銚子市制施行80周年記念行事 【銚子SLまつり】 限定のお菓子『SLサブレ』を販売。
平成25年4月23日(火)      ぬれ煎餅スイーツ『ぬれロール』を犬吠埼なぎさや限定商品として発売。 
平成25年7月3日(水)      『あの頃の濃厚プリン』を新発売。後に『伊達巻プリン』に改名。 
平成25年7月20日(土)      いわしサブレきんめちゃんサブレ』の5枚入手さげバックを新発売。 持ち手が魚の形になった画期的なデザインに完成。
平成25年9月3日(火)      看板商品『サンオレ』のパッケージを新調
 平成26年12月31日(水)   2014    50年ご愛顧頂いた西芝店を閉店
  平成27年6月26日(金)       それまでこだわり続けてきた酵母菓子の集大成『発酵の母』シリーズ(酒粕パン・みそぱん・醬油パン)が完成。道の駅【発酵の里こうざき】で発売開始し大好評中。(銚子酒蔵の酒粕で販売開始し、7/3からは神崎産の酒粕でも商品化)
※商品および行事情報を追記中です。
◆昔の写真

アイスケーキ販売を開業、増築した時の記念写真
(昭和11年)


中央よりやや右に腰掛けるのが山口四郎。四郎の前に立つ帽子を被った男児が長男の卓郎(当時4才)。
開業祝のアドバルーンをあげ万国旗で飾った。看板の文字が右から左に向かって書かれているのが印象的。自転車の隣には開店祝いの景品にされる醤油が積まれている。この建物は平成21年9月に解体される最後まで稼働し、増改築を繰り返すも大正、昭和、平成と三時代に渡る100年もの間、菓子業を営み続けてきた。
店舗新築完成並・アイスケーキ開業
記念大売出しの広告


上の写真の日に配られた広告

(掲載内容)--------------------------------------------
 景品に
 一等 ヤマサ醤油大樽 壱樽
 二等 上等木炭 壱俵   
 三等 ヤマサ醤油一升瓶詰 壱本
 四等 高級化粧石鹸 半打(半ダース)
 五等 当店独特の小倉羊羹  
 又は上等名入手拭・・・等外 洩れなく景品差上げます。
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※川村製菓一手販売、日清製菓特約店とある。当時、メーカーと代理店は大きな信頼関係で結ばれていた。少し後に明治製菓の特約代理店となる。



四郎さんと職人さんと家族(昭和20年代後半)

中央が山口四郎。女児を抱くのが妻はな。
前列右から2番目が長男卓郎。弟子、見習い数十人が住み込みしていた。

当時の配達車
○に上印は(マルジョウ)は当時の屋号。



自宅での宴会風景
大勢の為、1階と2階に分け席を作る。
(昭和20年代後半)

工場の職人仲間と。左から2番目が卓郎。

平成19年の本店

何度も改装を重ねた創業の地 川口町本店。


お願い:100年の歴史のある山口製菓舗ですが、自社、自店の写真や資料があまり残っておりません。古い写真や菓子の包装紙、広告などお持ちの方がおりましたらご提供頂けますと大変幸いです。撮影させて頂いたのちに責任を持ってご返却致します。勤務されていた時の工場内での写真、店舗での写真など大歓迎です。以前、銚子市東町のボンホウルム開店時の販売員さんのウエイトレス姿の写真を見たことがあります。ご協力頂けましたらと存じます。何卒宜しくお願い申し上げます。
これまで支えて下さった多くの皆様に心より感謝申し上げます。
今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。



 


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